小さい頃からいつも元気だった、近所のばっばんが亡くなった。
思えば「ばっばん」なんて方言で「ばあちゃん」って言うのは、不思議なことにばっばんにだけだった。
家からのメールを見ても、電話で話しを聞いても、実感はわかない。
信じられなくても、もう会えない。分かっているんだけど。
昨日の電話やメール、全部嘘かもしれないって思ってる自分がまだいる。
東京にきてから、地元に帰省する度に時間の流れを感じてた。
ずっと一緒にいるときは毎日何も変わってなかったけど、数ヶ月地元を離れてから戻ると
確実に時間が流れていることを実感した。
どこかの誰かが亡くなってたり、同級生に子供がいたり、昔止まっていた時間は流れ続けてる。
みんな少しずつ変化し、衰えて、死んでいく。
今目の前で元気にしていても、いつかはその日がやってくる。
何気なく話しているときに、ふっとそういう思いがよぎったりしてた。
だけど、実際に自分に近いところにいた人がいなくなると、一般的な話ではなくなる。
分かっていても、やっぱり簡単に受け入れられない。
当たり前にある体の一部が無くなったみたいに、穴が開いた気分だ。
何気ない毎日の一コマが、もう二度と現れない事を知っている。
どんなにばっばんの姿を思っても、それはもう記憶の中の話なんだ。
寂しくなるね。
突然悲しくなったり、わり切れたり、人の心は不思議で。
来週帰ってばっばんにあったらどんなことが分かるんだろう。もっと何かかわるのかなぁ
ばっばんみたいに元気な人も突然いなくなってしまう。
「なら、またね」
次も当たり前に合えると思ってたのに会えなくなってしまう。
それが昨日会った友達でも、電話で話をした親でも、別れは突然にやってくるかもしれないんだ。
いつでも『今』を大切に、『今』自分ができることを精一杯に生きるんだ。
俺を大切に思ってくれる人をもっと大切にしよう。
一緒にいる、なんでもない時間にたくさん笑っていられるように。
いなくなって初めて大切さが分かる。
そんな言葉は絶対に言わない。じいちゃんのときに感じた後悔はもうしない。
でも俺は本当に、本当にみんなを大切にしているのか?
もっと真剣に、深く自分の言葉を受け止めよう。
きっと大切な人がいなくなったときの悲しみだけは、いくつ年をとっても、心の準備をいくらしたって、
慣れることはないんだろうなぁ、と思う
俺が小さな田舎の小さな通りに生まれ、ばっばんやみんなに囲まれて育ったことは、
いつまでたっても変わらない。
俺がいくつになっても、どこに行っても、いつもそこが帰る場所だ。
いつも一緒にばっばんと墓参りに行ってたけど、これからはばっばんのところにいつも行くから。
俺がこれから見るいろんな世界の話を帰ってくるたびにしに行かんならね。
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